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ベーシック・インカム論

『生活経済政策』

no.154, November, 2009, 27-30頁、所収

橋本努

 

 

はじめに

 

 雇用の不安定化や長期失業率の上昇を背景として、近年、基本所得(ベーシック・インカム)論を支持する議論が浮上している。基本所得論とは、未成年者を含めたすべての国民に対して、政府が毎月一律の基本所得(例えば7万円)を配付するという、それ自体としてはシンプルな政策の提案である。だれもが「人間らしく生きる権利(生存権)」をもつならば、有職時にも失職時にも、最低限の所得を給付されねばならない。そのような権利観から、無条件の基本所得給付を求める声が上がっている。

 この主張はしかし、「働かざる者、食うべからず」という伝統的な倫理観に反するのみならず、マルクス主義を含めた従来左派の倫理観、すなわち「労働は能力に応じて、賃金は必要に応じて」という分配の正当化原理にも抵触する。基本所得論は、「働かざる者も、食うべし」といい、また「能力のある者、働かされる必要なし」と講ずるからである。この倫理観は直感的には受け入れがたいものがあるが、にもかかわらず基本所得論は、現代社会の諸問題に対して、政策的にみて最適な解決策を与えるかもしれない。基本所得政策の実効的な可能性について検討することは、他の代替的な諸政策を考える上でも、有効なヒントを与えるだろう。

 

 

1.基本所得論の魅力

 

 基本所得論のいくつかの魅力を挙げてみよう。

(1) 2009年8月の衆議院選挙において民主党は、自由貿易協定(FTA)の締結を当初マニフェストで謳ったものの、最終的には農業関係者の反発を受けて、その文言を「交渉の促進」へと修正し、政策提言を後退させた。ところが韓国はすでに、自由貿易協定を締結している。自由貿易協定によって、韓国は途上国に対して関税抜きに自国製品を売ることが可能になる。例えば薄型テレビは14%、自動車は10%の関税が撤廃されるという。こうした状況下で、日本政府が自由貿易協定の締結に消極的な態度を採りつづけるならば、日本の諸企業は輸出競争力を失うと懸念されよう。問題は、自由貿易協定を受け入れた場合に、日本政府は輸入農作物に対する関税を引き下げねばならず、そうなると日本の農家は、国内での市場競争力を失うという点である。一つの解決策として、政府は自由貿易協定を締結する一方で、農家の人々に対して基本所得を給付すればよいのではないか。基本所得の給付は、自由貿易を促進する立場と両立する政策として、魅力的にみえる。

 (2) ここ十数年の傾向として、20代、30代の若者の雇用条件が悪化している。長時間労働化、雇用の不安定化、低賃金化という傾向のなかで、若者たちはますます晩婚化に甘んじ、それに伴う少子化を受け入れざるを得ない状況に置かれている。少子化に歯止めをかけるためには、この際、基本所得政策を実施して、子供が多いほど家計が潤うような状況を生み出せばよいのではないか。例えば、一人当たり7万円の基本所得を分配するならば、4人家族の家庭は、毎月28万円の基本所得を得ることができる。基本所得政策は、子供を産み育てるインセンティヴを、親の所得増によって与えるだろう。この政策によって若年労働者たちは、賃金や雇用のさまざまな不確実性に直面しつつも、子育てへのインセンティヴをもつことになる。基本所得の給付は、雇用政策上の大きな変更コストを避けて、少子化対策に資するかもしれない[1]

 (3) 基本所得政策は、あまりにも複雑化した現代の配分政策を、単純化するという魅力をもっている。現在政府は、教育・福祉・医療の諸分野において、貧困世帯への給付や支払いの減額ないし免除を、さまざまなニーズに応じておこなっている。その際の行政処理コストは膨大である。基本所得の機械的な給付がこれらの政策に代替するならば、行政処理コストは低く抑えられよう。基本所得政策は、一方では所得の再配分を強化しつつ、他方では行政面で「小さな政府」を実現するという魅力をもっている。もっともその魅力は、基本所得の額によって異なるだろう。基本所得の給付額が小額であれば、他の諸政策に代替することはできず、したがって行政処理コストを削減することはできない。反対にそれが多額であれば、政府は究極的には、教育・福祉・医療のあらゆる政策から身を引くこともできる。その場合の政府は、左派リバタリアニズムの理念に基づいて、祭司的で温情的な権力の行使を避け、ただ所得を機械的に再配分するだけの機関になるだろう。

 (4) 基本所得を導入すれば、私たちは「生活の豊かさ」や「幸福」をめぐって、真に価値ある思考をめぐらせることができるかもしれない。基本所得を保障された人々は、もはや最低限の生活費を稼ぐために、やりたくない仕事をする必要がなくなる。すると労働者は、労働の現場において、自尊心を傷つけられることが少なくなるだろう。他方で、雇用側は、もはや人を雇う際に、解雇権の制約に縛られることがなく、最低賃金法を守る必要もなくなる。極端に言えば、雇う側は、時給1円でも人を雇うことができ、またいつでも自由に解雇することができるようになる。このような労働環境の下では、希望者の多い仕事の賃金は下がり、だれもがやりたがらない仕事の賃金は上昇するだろう。もちろん仕事にふさわしい労働の熟練度は求められるので、賃金の高さは、労働者の熟練度と忌避度の二つを反映して決められることになろう。すると人々は、貨幣所得のインセンティヴに縛られずに、賃金を自尊心との比較で天秤にかけるだろう。人々は基本所得の給付によって、自尊心を傷つけられずに働くという「自由」を手に入れる。これはいかにも魅力的な世界である。

 (5) この実質的自由の実現は、しかし、決して資本主義の論理に真っ向から反する理念ではない。現代の資本主義社会においては、国富増大の戦略は、クリエイティヴな産業において新たな付加価値を生み出すことにかかっている。たんに勤勉な労働によって富を生み出すのではなく、創造的な活動によって、新たな富を産むことが望まれている。だとすれば私たちは、膨大な時間を費やしてでも、創作のための準備活動に当たらなければならない。それは例えば、旅行や遊び、学習やコミュニケーションといった、それ自体としては、非生産的な活動になるだろう。大きな付加価値を産むための創造的な仕事は、膨大な非生産的時間を必要としている。現代の資本主義は、創造資本を増大させるために、非生産的な活動のなかで創造的になるという、ライフスタイルの転換を求めている。基本所得の給付は、そのためにふさわしい生活環境を与えるだろう。もちろん、基本所得を無駄に使い、労働意欲を失う人もいるにちがいない。けれども100人に一人、あるいは1,000人に一人が独創的な資本を生み出すならば、基本所得の給付は、全体として資本主義を駆動することができる。検討すべきは、基本所得の給付が生み出すモラル・ハザード(労働の忌避)と、それが生み出す新たな創造的価値の、損益勘定である。この二つは共犯関係にあるといえるが、ならば私たちは基本所得の給付によって、労働意欲の低下に目を瞑ってでも、新たな創造資本の醸成を企てるべきかもしれない。

 

 

2.基本所得論の実効的な困難

 

 以上、基本所得論のさまざまな魅力について述べてきたが、実効的な困難もある。

 第一に、基本所得の導入は、どんな政策に代替するのかという問題がある。最もラディカルな基本所得論の立場(左派リバタリアニズム)からすれば、基本所得は、教育・福祉・医療のあらゆる政策に代替するものでなければならず、政府は基本所得の導入と同時に、これらの分野からすべて手を引かなければならない。しかしこうした政策の大転換は、実効的には難しい。もし実行すれば、新たに別の問題が発生する。例えば、基本所得を給付して最低賃金法を撤廃する場合、移民労働者にはどのように対応すべきであろうか。資本所得を支給されない移民に対して、最低賃金法を適用すべきだとすれば、企業は積極的に移民を雇わないのではないか。すると移民は、技術労働者を含めて、日本では労働の機会を奪われることになるかもしれない。

 いずれにせよ、実効的には、基本所得の導入は段階的になさねばならず、しかもそれは、一部の教育・福祉・医療政策を代替する程度に留まる可能性が高いだろう。検討すべきは、基本所得の理念を、どんな政策によって実現するのか、という問題である。雑誌『週刊金曜日』(2009年3月6日号、14-17頁)が各政党に行なったアンケートによると、現在、基本所得の導入を求める政党は、新党日本の一党のみであり、これに近い政策を提唱しているのは、社会民主党である。社会民主党は、基本所得的な政策として、消費税額戻し金(飲食料品にかかる消費税分を返金する制度)、低所得者への給付つき税額控除、公契約法・公契約条例による生活賃金保障、児童信託基金制度、すべての子供の生活保障、高齢者の最低生活保障、新たな就労・生活支援制度、などの政策を打ち出している。これらの政策は、既存の政策を前提とした追加的政策であり、大きな政策変更を伴わない点では実効的であるともいえる。しかし社会民主党が提案するように、基本所得を既成の諸制度の拡充というかたちで実現する場合には、行政コストの削減を期待することはできない。また基本所得の中核的な倫理観、すなわち「働かざる者も、食うべし」という倫理を実現することもできない。社会民主党的な政策パッケージにおいては、働く能力のある人は、やはり働かねばならない。

では社会民主党的な発想に立たずに、一律の基本所得の大胆な導入によって、他の諸政策を代替することはできるだろうか。私たちは、働かざる者にも基本所得を与えるという政策を実行できるだろうか。例えばすべての国民に対して、毎月一万円の給付からはじめて、毎月十数万円程度の給付を目指すような段階的政策の導入は、実効的であろうか。

問題となるのは、その経済的帰結であろう。基本所得を主張する第一人者のヴァン・パリースは、基本所得の給付によって、政府の持続可能な税収が先細りするようなことがあってはならないと論じている[2]。基本所得は、その体制がもつ潜在生産力(いますぐに使用できる人的労働力の生産性ファイル)が小さくならない限りにおいて、給付されるべきだというのである。とすれば、基本所得の正当性は、その都度の経済状態によって変化する。基本所得は、たとえそれが給付されたとしても、その水準を安定的に維持することは難しいように思われる。

基本所得の水準は、おそらくインフレターゲット政策と類似の困難を抱えている。インフレターゲット論者たちは、政府が毎年k%のインフレ率を達成することを法的に定めるべきだと主張するが、そのような法律は、実際には維持できない可能性が高い。基本所得政策の場合も同様である。基本所得政策が経済成長と両立すべきだとすれば、毎月どの程度の給付が望ましいのかについて、私たちは財政面、社会的帰結面で、その都度の検討を迫られる。基本所得政策は、なにが「基本」であるかをめぐって、制度的に不確実で不安定な運営を強いられるだろう。

 それゆえ基本所得は、それが導入された場合にも、労働の倫理観の転換をもたらさない範囲で導入されるにすぎず、行政コストの削減をもたらさない可能性が高い。加えて基本所得は、人々の実質的自由を実現するほどの額には至らず、したがって創造資本を増大させる可能性も低いだろう。実効的には、農家に対する基本所得の給付と自由貿易協定の締結、あるいは、子供に対する基本所得の給付によって、自由経済制度の整備と少子化の対策に資するような場面での導入が望ましいのではないか。基本所得は、それが対象限定的に給付される場合に、経済利益と人口の増大という国富の理念に適うであろう。

 

 

3.思想的課題

 

 基本所得論の初発の関心は、人々が実質的な自由(したいと思うかもしれないことをする自由)を獲得する社会を実現することにあった。けれどもこの政策が実行に移されるとすれば、それは国富増大の目的に資する場合であるかもしれない。思想理念とそれを受肉化する政策のあいだには、しばしば一定のギャップが生じる。最後に検討してみたいのは、基本所得論においてそのギャップは、そもそも理論に内在しているという問題である。

 実質的な自由を実現するためには、人々は、すべてを考慮に入れた上で、自身の潜在能力(ケイパビリティ)を最大限に実現することができなければならない。パリースは、この潜在能力の実現を、保障と自己所有と機会という三つの問題に還元して捉え、政策的には「最高水準の基本所得」の給付によって可能になると考えた。だがパリースのこの主張は、潜在能力論がもつ含意を決定的に無視している。というのも、A・センに代表される潜在能力論の狙いは、たんなる貨幣給付によっては測ることのできない効用享受の次元、すなわち、財・サービスに対する人々の享受機能(functioning)の差異や滋養を問題にしていたからである。

人はたとえ一定の所得を与えられても、自身の潜在能力をうまく実現することができないかもしれない。潜在能力の開花=実質的自由の実現は、保障や自己所有や機会には還元されない次元をもっている。それはすなわち、潜在能力の享受機能を発達させる「生成」の次元であり、その生成を促すためには、例えば、規範的価値を討議する空間の洗練化、実践的理性の豊かな行使、ポテンシャルを高める全能感の滋養、といった実践が不可欠であろう。人々の実質的自由とは、潜在能力の十全な開花であり、基本所得の給付だけでは実現されない。それはもっと決め細やかな施策、例えば、子育てサークルへの教育的・経済的支援や、高齢者の社交サークルへの補助金といった政策を必要としているのではないか。

逆説的ではあるが、基本所得論の背後にある理念、すなわち「実質的自由」を実現するためには、基本所得とは別の施策を検討しなければならない。基本所得の理念である実質的自由と基本所得政策のあいだには、深い溝がある。

 

 



[1] この他、基本所得は、解雇された派遣労働者の生活や年金積立て未納者などの生活を支えることができる、という魅力をもっている。

[2] P. ヴァン・パリース著『ベーシック・インカムの哲学』後藤玲子/齊藤拓訳、勁草書房、2009年、63頁、参照。